東京藝術大学大学院
映像研究科映画専攻
19期生修了上映会
Tokyo University of the Arts
Graduate School of Film and New Media
Exhibition of Graduation Films 2025
「JUKEBOX#19」
映画専攻第19期生による修了作品上映会「JUKEBOX#19」が開催されます。4人の監督が描いた独自の世界観を、脚本、プロデュース、撮影照明、美術、サウンドデザイン、編
集の各領域が一体となり、素晴らしい映像作品となるよう追求しました。4本の作品で構成された上映プログラムを、「映画館」という「ジュークボックス」の中でお楽しみいただけます。
また、専攻長の筒井武文教授、監督領域担当教員の塩田明彦教授、諏訪敦彦教授よりコメントを頂きました。
「 この四本は全部ご覧いただきたい。1期から19期の修了製作を見続けた者として、驚くべきことが起こった。見るに値する四本が、高いレヴェルで揃ったのだ。今回の事態に近いのは、『走れない人の走り方』を含む17期だったが、それでも拮抗した四本という点では19期以上は望めまい。もうひとつの驚きは、四本とも一時間を切った点である。長篇にするのを断念し、編集で思い切って濃縮した良さといってよい。どの作品もだれる時間が全くない。それぞれ固有の世界を持ち、それに必要な表現を模索し、見事に獲得している。どれが一番優れているかは判断不能、見る人の好みに委ねるしかない。といっても、制作が順調に運んだわけでもない。トラブルも多発したが、映画の面白いところは、そうした悪条件が必ずしも結果に反映しないことである。四本とも、その作品独自のコンセプトに賭けている。『August in Blue』はフランスから女優を呼び、『霧しぐれ』も中国人女優を起用し、それぞれ日本の高原の森へと誘う。異文化の接触という主題は似ているが、現れた世界はまるで違う。『人間の実』は、女性が中心になる点は同じだが、接触の対象は人間ならざるものである。『アンドウ』は唯一男性が主軸になるが、向かい合うのは声のみ、非接触の世界が描かれる。私にとって、奇跡の四本である。 」
「 今年の4作品は充実している。驚くほど充実している。それぞれがそれぞれの主題と手法を見出し、現代映画の最前線に躍り出ようとしている。ある中国人女性のアイデンティティの揺れをどこまでも物質的に、刻々と表情を変えてゆく“水”との共鳴として描き出す『霧しぐれ』。印象的な巨樹の下で奇妙な木の実を拾ったことから思わぬ衝動にとりつかれていくひとりの女性を描く『人間の実』。観光地でもない日本の片田舎を自転車でバックパッキングするフランス人女性の過ごす時空を驚くほどシンプルな手法によって驚くほど表情豊かに描き出す『August in Blue』。現代日本に突如生まれ落ちたB級フィルムノワールの神髄とも言うべき『アンドウ』。多彩に映画の可能性を追求する4作品に、あえて共通するものを探るなら、それは裏テーマとしての自由と孤独だろうか。人は自由を求めて孤独に陥り、孤独を遠ざけては自由を失う。だから自由には恐怖があり、孤独にも希望がある。そんな二律背反のドラマを4作品の作者たちは決定的なひとつの身振り、ひとつのアクションと共に語り継いでいく。それゆえ私たちは一瞬たりともスクリーンから目を離すことができない。次の瞬間、何が起きるか分からないか らである。 」
「 藝大の修了制作は、撮影日数や予算という物理的な制約はあるが、基本的に主題やモチーフ完成尺などについての規制はない。故に毎年のことながら、4本の作品はそれぞれまったく違う主題や方向性を持っている。ただ、今年の4本はコンパクトな上映時間が共通しているが、その世界は眩暈がするほどバラバラで、映画にまだこれほど多様な広がりがあるのかとワクワクした。それは当然のことかもしれないが、制約がないからと言って映画が簡単に自由になれるわけではない。それは各チームの取り組みが映画をさらに未知の領域に一歩前進させようと勇気を持って跳躍したことで実現された稀有な広がりであると思う。ポエジーとリアルをまったく独特の方法で共存させる『人間の実』の驚き。葛藤ではなく融和によって物語を越えて世界を肯定してゆく『August in Blue』の開放感。見えているものと聞こえているものの分離という実験的な空間に娯楽映画を立ち上げようとする『アンドウ』のスリル。現実と非現実、生と死、二つの世界の境界を自然=身体のリアルによって消し去ってしまう『霧しぐれ』の世界の手触り。バラバラな四つの試みそれぞれがみな、社会から切り離された孤独な主人公によって世界とのつながりが再発見される旅であることは偶然ではないのだろう。彼らが見出した景色に、それでも世界は美しい、という声が響いた。 」





霧しぐれ
アンドウ
人間の実
August in Blue
作品一覧

霧しぐれ
季子汀監督の冬期実習作品「会真記」を同時上映いたします。
作品情報
あらすじ
日本にやってきた中国人小説家、李白蘭は、山奥の民宿に泊まる。そこで出会った謎めいた青年・洋介と過ごす中で、彼女は失いかけていた情熱を取り戻していく。洋介の正体を探るうちに、彼女の欲望が刺激され、さらに洋介に近づいていく。洋介の持つ秘密と自身の欲望に飲み込まれ、李白蘭もまた、山の記憶に迷い込んで いく。

予告編
上映日程
渋谷会場
スタッフ
出演者







アンドウ
作品情報
あらすじ
裏組織の冷静な司令塔アンドウは、組織の部下たちに特殊詐欺計画の指示を与えている。今回の作戦が成功したら、アンドウは組織から独立する予定だった。しかし、金を騙し取る計画は失敗した上、部下の1人が殺害されたことが判明し、さらには隠しておいた8000万円も消える始末。アンドウは事態の収拾に奔走する中で、ある思惑に気がついてしまう。状況は悪化の一途をたどり、アンドウは窮地に追い込まれる。

予告編
上映日程
渋谷会場
スタッフ
出演者






「 今回いわゆるジャンル映画を目指したのは、新井吉亮の『アンドウ』だけである。しかも、とびきり奇妙なジャンル映画である。出てくる男一人だけ。出てくる場所も暗い部屋一室のみ。まさかこのまま最後までいくのかと、観客が不安にかられる設定なのである。男は犯罪グループの実行部隊を仕切る、といっても、電話で指示を送るのみである。他の人物は、声のみの存在だ。仕掛けられた盗聴マイクから、現場の切迫感は伝わる。男は失った金を取り戻そうと、黒幕に隠れて、複数の配下に同時に金の回収を命じる。映画で最も難しいことのひとつは、まったく映像と音響の情報が異なるとき、編集でどちらを優先するかである。それは賭けのようなものだ。そのとき、男と映画は運命共同体となる。 」
「 自由もなく孤独な男の、生き残りを賭けた闘い。それにしても藝大からこれほどまでにB級精神にあふれたフィルムノワールが誕生するとは驚きである。B級とはもちろん映画の質に対する評価ではない。限られた予算、限られた時間、限られた武器を手に、考えられる限り最も大胆な作戦を練り、実行する。それこそがB級映画の根本精神であり、その意味において本作の作者たちはあのハリウッドB級活劇の巨匠ドン・シーゲルの末裔といっても過言ではない。藝大は作家主義の牙城と呼ばれているらしいが、そもそも作家主義とは、世間から単なる娯楽映画、金儲け映画の監督としかみられていなかったシーゲルやR・フライシャーら、1940年代~50年代に活躍したハリウッド低予算映画の監督たちをこそ真の映画作家としたのが始まりである。その意味において、この映画の作者たちこそ、言葉の本来の意味における「映画作家」なのである。 」
「 今年度事情により監督1名が空席となり、編集領域の新井吉亮が名乗り出て監督を務めた。時間的にもさまざまな制約があったが、それを逆手に取りワンセットというミニマムなシチュエーションに撮影照明、美術、サウンド、編集、製作そして俳優と演出の力全てを凝縮させ、つまり最も正攻法な演出により見事な映画空間を現出させた。リモートによる犯罪が絵空事とは言えない現在だからというわけではないが、すべての出来事を音としてのみ提示するという大胆な構成がこれほど面白いとは!多くの商業映画は観客に飽きられることの強迫観念からあの手この手を弄して映画を取り逃すが、『アンドウ』は自ら言い訳のきかない場所に身を置き、逃げることなく映画の面白さに挑んだことに拍手を送りたい。 」

人間の実
作品情報
あらすじ
木下良子は一人暮らしのアパートで、在宅で仕事をしている。ある日良子は青紫色の実を拾う。実の存在が良子に影響をもたらしたのか、あるいは潜在的に内に秘めていた欲望か、良子は他者との身体的な接触を求め、その欲望にかられる。良子の衝動に伴うかのように実は変化していき、徐々に実の存在に囚われていく。
予告編
上映日程
渋谷会場
スタッフ
出演者






「 美しい映画だ。こんな映画は見たことがない。冒頭の樹々の茂っているショットはまるで素朴派の絵のようだ。アンリ・ルソー?一方、彼女の寝室は窓がベットの上に立って、やっと届く高さだ。そこからの光が簡素な室内を浮かび上がれせる様は、17世紀ネーデルランドの室内画のようだ。フェルメール?その空間で起こる女性と実の対話?あるいは接触?女性は陶芸教室で、その実を模倣しようとする。確信に満ちた編集が、驚くべきイメージのオーバーラップを導いていく。こんな美しいオーバーラップを見たことがあるだろうか。人との接触を恐れていた女性の変身譚。物語に翻訳する必要はない。ただ実在する画面の感触だけで勝負している。どうしたら、『人間の実』のような映画ができるのか不可解極まりない。西室杏梨は天才なのか? 」
「 『人間の実』などといかにも意味ありげなタイトルがついているが、身構える必要はない。映画において、世界を決定づけるのはつねにひとつの決定的な身振り、決定的なアクションである。集合住宅にひとり暮らし、会社とはリモートで繋がり、自由だが孤独な生活を送る女性がある日、巨樹から落ちてきた木の実を拾い上げる。その動作を起点にして突如、彼女に強い欲望が生じてくる。触れたい。触りたい。この世のすべてをこの肌で感じたい。感じとりたい。どうしようもない衝動が静かに彼女を突き動かしていく。しかしてその衝動こそ人間が人間として生きていくうえでの根源的なものだとしたら、私たちはその欲望を認めるべきか、それとも抗うべきなのか。触れたい、触れていたい。無言のうちにそう呟きながら、本作は映画表現における最大の困難といってよい“触覚”の実感的描写に成功している。見事なまでに成功しているのである。 」
「 人が目覚め、ベッドから起き上がるという場面を私は嫌というほど目にしてきたはずだ。特に日本の若い人の作品には多い。しかし『人間の実』のように人がベッドから起き上がる様を見た事がない。これほど普通に動く人間の身体が捉えられた事があっただろうか?映画というメディアに注がれるあらゆる欲望の視線をかいくぐりながら、ある身体を捉えることの困難をこの映画はスッと飛び越える。知らぬ間にふたつに増殖している実というファンタジーが日常の身体の時間に当たり前のように接続される驚き。その実をひろうことで誘発される「触れる」ことのドラマが、物語を超えて「触れられる」こと、つまり独りではないことに出会うショットは感動的である。 」
「 冒頭、ただならぬ速度で歩く⼥性の姿。⾒逃してはならないと迫る緊張感が最後まで続くことに慄く。果たして私の感情はどこに辿り着いたのか。定かではないが、遷移した私の⾝体を確かに感じる。 」
「 「⼈間の実」この不可解なタイトルより、⽣々しくも想像を超えるエキスが滴るような映像に、すっかり酔わされた。我々はいったい何を飲まされた? それは、想像を超える才能かもしれない。 」
「 冒頭の美しいショットを⾒た瞬間、これは良い映画に違いないと確信する。奇妙な実を拾った⼥のけだるそうな表情や、どこか殺伐としたアパートでの⽣活、⾎が流れることにさえ頓着しない様⼦を⾒て、ある時期の蔡明亮や⿊沢清のように都市⽣活者の孤独を描こうとしているのだろうと想像する。ところが奇妙な実にある変化が起き、⼥を端正な固定ショットで捉えつづけてきたキャメラが動き出した瞬間、映画は突然壮⼤に、凶暴に、そして感動的に⾶躍し、思いもよらない場所まで連れて⾏かれる。このように映画に痛みと柔らかさを導⼊した映画作家を私は他に知らない。 」

August in Blue
作品情報
あらすじ
27歳のフランス人旅行者ディディは、日本を一人で旅することに。田舎町を訪れたが退屈し、自転車 で山を探索。奥深い神社で怪しげな農家姿の青年チャンスに出会うが、自転車がパンクし、古民家 で一夜を過ごす。その後、町で出会ったパン屋で働く女性エミと意気投合し共に山を駆け巡る。やが て、夏の終わりがやってくる。

予告編
上映日程
渋谷会場
スタッフ
出演者






「 私にとって、夏の映画(胸の奥がキリキリと痛む切なさ)の決定版は、ロバート・マリガンの『おもいでの夏』(71)とジャック・ロジェの『アデュー・フィリピーヌ』(62)だった、と過去形なのは、それに、Henry Eharaの『August in Blue』が加わったからだ。しかも、その純度の高さには文句のつけようもない。なにしろ恋愛の直接描写抜きで成り立っている。フランス女性の日本の高原地帯への旅。1が2になり、また別の2が生まれ、3の瞬間の邂逅が忘れ難い時間を刻み、また1に返る。とりわけパン屋以降の展開の意表をつくこと!フランス語と日本語が同時に飛び交う様も面白いが、言葉の意味に頼らず、3人の身体性を解放させた演技・演出がとびきり素晴らしい。映画自体に胸が痛む、いや弾むのだ。 」
「 自由とはもはや失うものがなにひとつない状態のことである、と言ったのは誰だったか。真夏の憂鬱。エトランゼの自由と孤独。何も起こらない、しかしどこか投げやりに生きることの心地よさに満ちた時間。若いフランス人女性のバックパッキング生活はいくつかの出会いを経て少しずつ華やいでいく。だが、そんな時間もひとりの日本人女性が不意に踊った白鳥の舞と共に変質し、後戻りできないものへと変化する。世界が無言のうちに問うてくる。選択せよ。この分かれ道に立ち、おまえはどちらへ進むのか。何を捨て、何を選ぶのか。楽園もいずれ終わる時が来る。静かにその結末へと至る世界のなんとサスペンスに満ちていることか。それをあくまで真夏の光の明るさと軽さの中で描き出していく作者たちの感性に、私は思わず感嘆するのである。 」
「 失くした財布を届けにきてくれる人がいる、というのが「日本」なのかもしれないが、その届けに来た人が目の前でフッと踊りを披露してくれるとは限らない。その瞬間、言葉が通じようが通じまいが二人は友となる。『August in Blue』では人はそんなふうに出会う。物語の葛藤を生むために現れる悪者も、乗り越えるべき困難もない。延々と踊り、遊ぶ無為な時間が美しい。見せかけの葛藤よりも目の前の身体を信じ、映るものを肯定するカメラの力を信じようとする。日本が平和なユートピアであると言いたいわけではない。つまりこの映画を動かしている原理こそ「平和」なのである。それは物語ではなく歌である。この作品が戦禍の絶えないこの年に制作されたことを忘れないようにしようと思う。 」
上映日程
渋谷会場
03/14[金]
03/15[土]
03/16[日]
03/17[月]
03/18[火]
03/19[水]
03/20[木]
03/21[金]
お知らせ
アクセス
ユーロスペース
通常チケット:1,000円
(各回3日前より販売開始)
3.14 — 3.21
東京都
渋谷区
円山町1-5 KINOHAUS 3F
Bunkamura前交差点
(松濤郵便局前)左折
「 季子汀のモチーフは、前作『会真記』に引き続き、小説家をめぐる現実と異界の境界線を崩すことにある。『霧しぐれ』は山中のロッジを舞台に、中国の女流小説家の周りに起きる異変が描かれるのだが、彼女の前に現れる青年の生々しいばかりの現実感が印象的である。彼は小説家に森の法則を教えに来たかのようだ。そして見つけたアルバムの性別不明のハンターの写真。どことなく不安を煽るキャメラワークと共に、観客は異界へと導かれる。霧の立ち込める山中に現れる鹿。小説の世界が現実に侵入した前作とは異なり、ここでは観客は空間的にも時間的にも境界線の手がかりが得られない。まるごと現実の描写とするか、小説家の妄想と捉えるか。季子汀は、溝口健二の『雨月物語』の幻影の描写に近づいている。 」
「 母国での私生活上のスキャンダルをめぐる喧騒を逃れ、ひとり日本の山荘へとやってくる中国人小説家の女性。みずから孤独を求めての旅のはずが、思いもよらぬ闖入者との出会いに心はますます掻き乱され……。気が付けばあれほど美しかった木漏れ日は姿を消し、白い霧と時雨が彼女を包み込んでいる。天井の濡れたシミ、美しくも激しい渓流の流れ、彼女の内面に呼応するかのように“水”は様々に表情を変え、揺れ、それに呼応するかのように炎や月の光も揺れていく。ひとりの女性の内面がまるで物質そのものの揺れであるかのように描き出されていく。中国故事的な幽玄の世界に目配せしつつも、そこには確かに映画としか言いようのない時空が出現している。そんな物質的な想像力の果てに、ふっと映し出される半開きのドアがある決定的な悲劇を予感させるという演出は到底新人のものとは思えない、恐るべき映画的達成である。 」
「 誰かの記憶の充満する奇妙な家は、彼女を外界から守るシェルターであると同時に彼女を閉じ込める迷宮でもある。微妙にプライベート空間のないオープンな室内は、若い男が闖入することによってふたりの距離のドラマの舞台として見事に機能し始める。やがて、母である(ない)ことと女であることに引き裂かれる危機が彼女を異界につながる森へと連れ出してゆく。『霧しぐれ』では現実と非現実は奇妙にねじれながらも極めてリアルに結びついており、死の世界と現実の差も消え去っている。すべての境界が消えた後に彼女の眼前に出現する「母」と交わすふたりの表情が素晴らしい。その距離は美しく現実的な幻として、これほどまでに遠く、そして触れるほど近くにある。ここで成就する二つの世界の一瞬の交感が私たちの胸を撃つ。 」